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牧師と信徒と教会=羊飼いと羊と牧場

羊飼いである牧師の役割

牧師と信徒の関係は、羊飼いと羊の関係と一緒だと言われることがある。イエス様が羊飼いとして、羊を大事にして温かな眼差しを注ぐ絵画を何点か見た事がある。それならば、牧場はキリスト教会ということになるだろう。今回は羊飼いと羊と牧場の関係を考えつつ、あるべきキリスト教の世界観を以下に記してみたいと思います。

羊である信徒達が世の中において5日も6日も働いて、日曜日は牧場であるキリスト教会に戻って来る。信徒達はきっとクタクタのヘトヘトになっているに違いない。そんな信徒達に羊飼いである牧師がやるべき事は、以下の項目になるのではないかと思う。

  • 大前提として、教会は信徒が心安らかに休めるところであるべきである。
  • 羊飼いである牧師は、羊である信徒を守り抜くべきである。
  • 羊飼いである牧師は、羊である信徒がして欲しいことを何でもしてあげること。
  • 信徒がして欲しくないことは、やるべきではない。
  • 羊飼いが羊から離れている時でも、温かな心と眼差しで見守り、祈ったり支えたりすること。

キリスト教会は人が休み、憩えるところである。

信徒達は会社勤めをしたり学生生活を送ったり、色々と忙しい日々を過ごしている訳だから、日曜日だけは心安らかな時間を過ごせるよう、キリスト教の指導者達は配慮すべきであると思う。信徒達は日曜日にはキリスト教会に集い、一週間の重荷をイエス様の御前に降ろし、礼拝を捧げて静かな心を取り戻し、聖書の話しを通じて癒しと心の糧とを得て、大声で讃美歌を歌うことで身体をも癒していくのではないだろうか。大事なのは、その循環を止めないことと同時に、もっとキリスト教会で人が休めることが出来たら、どんなにいいかと思う。今、キリスト教に限らず、色々な宗教が教勢を維持するのが精一杯である現状の中、宗教指導者の本音としては「多くの人が教会に集い、働き人になって神様と人とに仕える信徒になって欲しい」と思ってしまうのは、人情として仕方のない面もあるとは思う。

しかしながら、信徒の面からすれば、一週間に5日も6日も働いて疲れ果てている面は否めない。「しっかり成長して、教会のために働いて欲しい」と願うキリスト教会の牧師と利害は一致しないため、多くの日本人は日曜日に家で休まざるを得ないのである。それ以上は、キリスト教会からのアプローチがないので、それ以上の対策は打てないまま、何十年も年月が経過しているのが正直なところではないのだろうか。

それならば、人が家で休まず、教会で休めばいいのではないだろうか。多少の疲れがあっても教会に足を運び、その後は礼拝でゆっくりとした時間を過ごし、必要であればもっとゆっくりと休めるようなイベントを企画して行くべきではないか。とにかく、人が自由に出入りし集えるシステムやら仕掛けやらは、絶対に必要になって来る。その取っ掛かりが創世記2章2節に「第7の日に、神は御自分の仕事を完成され、第7の日に、神は御自分の仕事を離れ、安息なさった。」とあるように、これこそが日曜日に神様の言いつけに従って、戦略的に休むという行動を選択することである。

そうでないと、一週間動きっぱなしになってしまうどころか、一生働かないとダメになるので、きっと人の心も人生もダメになるに違いない。そうなると、キリスト教は宗教として成り立ち得ないだろうから、神様が7日目に休んだ意義はとても大きなものであると言える。

牧師が信徒になすべきこと

教会という牧場に羊である信徒が集められたら、羊が何をするのかと言えば、きっと思い思いに過ごすに違いない。あくまでも羊の側に自由があり、羊飼いが羊の自由を束縛せずに導いて行くだろう。牧場の柵を越えて羊がどこかに行かないように、狼に食べられないように目をかけて、羊が安全に過ごせるように羊を守り抜く。ここで分かるのは、羊飼いが羊に対して、決して実利を要求しないというのが大事なことである。将来的に、食肉になるにしろ羽毛を刈り取られるにせよ、成熟した大人になってからのことであり、それをまだ育っていない幼い羊の状態で要求されても、羊の側が困るのである。

信徒が赤ちゃんとして生まれてから成長するに当たって、親の愛情を絶えず受け続けるのが必要不可欠である。キリスト教会では礼拝が一大イベントであり、羊飼いである牧師が信徒に聖書からの話しを神様からの愛情の伝達手段として行われる。礼拝に参加し、聖書からの話しから愛情を吸収し、教会生活する中で、信徒たる羊は羊飼いである牧師からお世話を受ける。そういった中で、何をなすべきか何をしないべきか、聖書から知恵と配慮の仕方とを学んで行きたい。大事なのは急かさないで、ゆっくりとマイペースで行って行くこと。何でもない毎日を過ごすことがキリスト者(クリスチャン)としての基礎を作っていくのだから、牧師は信徒を急がせたり圧力をかけたりしないように注意すべきでしょう。急がば回れである。遠回りこそ、近道であります。人間の成長スピードに則るならば、待つべきなのは必然。

キリスト教会の形成にとって配慮すべきこと

私がキリスト教会を建て上げるに当たって最も大事だと思うのは、「ある特定の人に負担がかかるような教会形成をやると失敗する」という事である。キリスト教会に限らず、どこの宗教も教勢を落として行く可能性がある中で、指導者の負担が増大するのは間違いないし、信徒達で負担を担い合わないといけないのも理解しているつもりです。しかし、信徒達の側も仕事が忙しくて、これは働き盛りであればあるほど疲れている可能性が高く、ただ単に「信徒も働け!」と牧師が叫んで望んでも難しいのである。大事なのは、教会に連なる皆さんで神様の御前に平伏し、祈りつつ休みつつ、心身共に神様によって回復されるのをひたすらに待つことではないのかと思う。神様によって回復された人が増えて行き、もし時間と余力があれば、皆さんの力で初めて一人の人の救出に携わることが出来るのです。そのような神様の時に巡り合うまで、キリスト教の牧師達や信徒達がひたすらに神様の御前で休んでいれば、それでいいのではないかと思う。牧師は会社の上司ではないのだから、羊飼いとしての配慮を持って羊に寄り添うべきであるし、「羊が休むべき牧場としての教会」としての立ち位置を忘れたら一気に「誰もが所属することが叶わない会社」のようになって息苦しさが増して行くので、くれぐれも牧師を初めとした教会の指導者達は注意すべきだ。

 

 

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