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時代の変化に対応する教会

現役世代はとても忙しい

前回の投稿で、私の青年会仲間が牧師の言いつけに悩み苦しみ、教会を離れた事を記しました。キリスト教会を形成する教会員の高齢化により、働ける人が皆無に近い状況にあって、牧師としては藁にもすがるような思いで働きを委ねたいと思っているに違いない。これまで多額の献金をして教会を支えていた教会員も、定年退職により給料が大幅に下げられる可能性もある。人やお金が少なくなると、自ずと教会の勢力や活動は縮小の一途を辿るのかもしれない。世の中には、キリスト教会よりも魅力的に思えるようなテーマパークやコンテンツはいっぱいあるが、決してキリスト教会がオワコンになった訳ではなく、需要は未だ十分にあると言える。私は40代の男性であるが、友達からは「疲れている人は多いよ。」と聞いている。そんな疲れている人々に教会へ来てもらい、ゆったりまったりとしてもらえばいいではないかと気づいて、以下に具体的に記してみる。

世の中の変化

先述の女子青年は月曜日から金曜日までフルタイムで働き、土曜日は午前中が丸々仕事で費やされる。私は月曜日から金曜日まで仕事で、土曜日は仕事があったりなかったり。女子青年よりは負担は少ないのかもしれない。教会に来なくなったM君は、日曜日も家で仕事をしないといけない場合があるシステムエンジニアである。彼の会社は残業手当の出る時間帯が午後9時から午後10時へと繰り下げされたと言う。これはこれで凄まじい状況と言えるだろうが、今時の現役世代にとっては、仕事の負担率は重いものになっており、決して楽なものではなく疲れるものであるのは間違いない。

何故、今時の現役世代が疲れているかと言えば、会社の人員削減が原因であろうと思う。昔は会社には人がいっぱいいて、多くの仕事を多くの社員で分けてこなしていたから、一人当たりの仕事量は牛丼で言うところの並盛か頭の大盛に行くかどうかだった。だから、仕事上がりのアフター5は居酒屋に繰り出してお酒を楽しんだり、趣味の学校に行ったり、ディスコで踊り明かしたりする事があり得た。

しかし、今はそんな余裕はない。バブル経済の崩壊を機に、会社は人員削減の方向に舵を切ったのだ。余剰人員を抱えられたような会社も少数精鋭にならざるを得ず、あれだけ腐るほど仕事があるとされた労働市場は過去のものとされた。バブル経済によって上りに上がった社員の基本給はそう簡単に下がるはずもなく、支出をとにかく削減せざるを得ないために求人が減らされ、私のような就職氷河期世代を生み出すに至った。日本は平和な国だと言われ、経済からの恩恵としてのゆったりとした時間の流れがあった気がするが、バブル経済の崩壊で時代状況ががらっと変わったように感じている。その変化に、キリスト教会も対応せねばならないのは必然である。

変化への処方箋

キリスト教会としては、教会へ来る人が少なくなっているから、教会へ足を運んで欲しいと言う要望がある。一方で、教会には働き手がいないから、教会へ来た人を労働力として働かせたいと思う思惑も見受けられる。いずれにしても、両方を得たいと思うのは欲張りであり、神様からしたら「多くのものを求めすぎ!」と見られるのかもしれない。何でもかんでも神様がやったら、人間の存在価値がなくなる。この場合は、先ずは人が教会に足を運ぶのを重視して、労働力にしようとする思惑は捨て去って、人が教会で安らかな気持ちで礼拝し、リラックスして教会内で過ごせるようになるのが先決である。

普通の人は一週間に5〜6日も働いていて、クタクタでありヘトヘトな状況にある。今の日本でキリスト教会で伝道活動をすると、出会う人たちとはこういう人たちである。日本の社会的なサービスを回すために、愛する人を養うために、また自分のために心身をすり減らすように働いていらっしゃるのだ。そんな負債を負っている人に教会へ来てもらい、負っている負債を降ろしてもらい、神様との会話に入ってもらうようにすべきである。最低限な説明をして、後は神様に委ねたらいい。ゆっくりでも確実に神様がその人に働かれるのをお願いし委ね、ひたすらに神様が働かれるのを認めていくだけである。私たちが業を煮やして急いでしまい、神様が働かれるプロセスをメチャクチャにする事だけは避けるようにしたい。

教会に来て、重荷を降ろして、ゆっくりと休養し教会生活にも慣れて、心身共にニュートラルなプラマイゼロな状況になって初めて、聖書を学ぶ過程へと移ったらいい。それに慣れたら、簡単な奉仕をやらせてみるなど、ゆっくりとやってみるのが必要である。地球が自転して、太陽の周りを公転しているスピードは全く変わらないのである。植物や動物の成長スピードなども昔から何も変わっていない。人だけが何故こんなにも早く生きなければならないのか。人手がいるなら、とりあえず教会員に任せればいいし、人が赤ちゃんとして生まれたら、幼児になるまでは一心にひたすらに愛情を受けて大きくなる以上、人はそう簡単に変貌しないのは確実である。むしろ、人にはゆっくりと生きて、神様の呼びかけを受けて、それに対してもゆっくりと答えを出して行くのだから、慌てず急がせず、教会に来る人には信教の自由と迷う自由とを与えて、ゆっくり且つ確実に主なる神様への恵みに応答出来るように配慮すべきである。

迷う自由

2022年12月31日にNHKの教育テレビで「問われる宗教とカルト」と言う討論番組が放映された際、批評家の若松英輔氏が「人は信教の自由があると同時に迷う自由がある。その迷う自由まで奪ってしまうのが、何とも言えず恐ろしい。」と仰っておられたが、その通りである。人は主イエスキリストと言う方と出会い、聖書の御言葉と相見え、その後の信仰生活に至るまで、何がしかの迷いや疑念というものが全く生じないと言えるのだろうか?自分が主イエスならば堅く信仰に根付いているのはあり得るが、宇宙のチリにも等しい私が神様の恵みには全く相応しくないのだから、最初から迷いや疑念がないのはあり得ない。

主イエスに対して反信仰であるならばともかく、不信仰であれば程度の範囲はさておいて誰においてもある事だ。今、不信仰でも神様が分からないとしても決して諦めず、神様が人に恵みを与え、新しい事を人に対して計画されるのを期待し、祈りつつ待つことも非常に大事な信仰のプロセスであろう。最短手順で進まずとも、人が結果に至るプロセスを大事にすることで、回り道するとしても人はそこで魅力を増し加えて、結果として万事が益とされる事があるのだから、慌てず焦らずゆっくりと神様と行こうよと言うのが私の思うことです。

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