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伝道はそもそも義務なのか?

私の事例

私は大学生になった時に、同じゼミの留学生から自分はクリスチャンである事を告げられて、プロテスタントと言うキリスト教の様式について教えられたり教会に誘われたり、色々なアプローチをされたのを覚えている。最初は怪しい感情を抱きながらも、結局は小学生時代にカトリックと触れた信仰の原体験と聖書の御言葉からの促しによって導かれ、2001年10月第4日曜日からとある韓国系教会に毎週通うようになり、2002年のイースターに当たる4月7日にバプテスマ(浸礼)を経て、クリスチャンとしての歩みを始めました。

私の教会は日本人の大学生がメンバーの大半を占める教会であり、一緒に礼拝を捧げたり、食事を楽しんだり、レクリエーションを楽しんだり、皆さんで楽しく信仰生活を送っていました。最初は和気藹々で過ごす時間を楽しみ、凄く良いかけがえのない時間を楽しんでいましたが、教会の方針の変更があったのか、宣教師や伝道師と言った教職者の先生により伝道へと駆り立てられて、段々と企業の営業マンのように忙しくなって行く姿を周りで確認するようになり、実質的に教会が会社と変わらないようななんとも言えない違和感を禁じ得ませんでした。私は大学生としての生活とクリスチャンとしての伝道を両立出来ず、3年10ヶ月ほどで所属していた韓国系教会を離脱して、日本バプテスト連盟の教会へ信仰生活の軸足を転じました。今では、自分の自由に信仰生活の中身を組む事が可能であり、自分なりにゆっくり且つじっくりとイエス様や聖書と向き合う事が出来ています。

旧約聖書における伝道の根拠

エゼキエル3章16〜22節において、預言者の務めとして神様に代わって悪人に警告する務めを負うと言われています。特に18節においては、もしも彼らに警告して、悪人が悪の道から離れて命を得るように諭さないなら、悪人は自分の罪の故に死ぬが、彼の死の責任を預言者に問いますよと語られています。

そこから恐らく、類比的にクリスチャンが福音宣教(伝道)の責任を果たさない場合には、その責任を神から問われるとこの場合は言いたいのだと思います。

伝道は義務ではないと言える新約聖書の根拠

ここでの根本的な問題は、果たして伝道する事は、クリスチャン全てに課せられた務めであるのかと言う事です。これについては使徒パウロがはっきりと述べています。

神は、教会の中に色々な人をお立てになりました。…皆が使徒であろうか。皆が預言者であろうか…(そうではない。だから、)…あなたがたは、もっと大きな賜物を受けるように務めなさい。

(第一コリント12章28〜31節)

聖書の御言葉を短くまとめてみたら、どうやらクリスチャンにはそれぞれの立場と役割があり、必ずしも伝道が第一であるとは言えないようです。上記の論理構造からは、伝道の地位が飛び抜けて高くない事が読み取れます。

伝道を教えている御言葉とは?

このブログのお題は、実は信仰の恩師から教わったものです。クリスチャンは伝道すべきだと言う事が、何か自明の至上命令のように言われがちですが、聖書を注意深く読んでみれば、そのような事は言われていません。

例えば、伝道の勧めとしてよく引用されるものに、マタイによる福音書28章19節以下の主イエス様の言葉があります。

だから、あなた方は行って、全ての民を私の弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなた方に命じておいた事を全て守るように教えなさい。

これは、主イエス様が生前に選りすぐって訓練した11人と言う限られた弟子に語られた言葉です。「洗礼を授け」と言う言葉が明示しているように、今で言えば神学的な教育と実践的な訓練を受けて牧師として按手礼を受けた牧師、宣教師、伝道師に向けられた言葉です。

あるいは、テモテへの手紙第二4章2節の

「御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。」

も、しばしば伝道への勧めとして引用されますが、これも使徒パウロが選りすぐって訓練したテモテと言う弟子に伝えた言葉である背景を意識すべきです。これらを教えられて、クリスチャンとして生きるのが楽になったのを未だに明確に覚えています。

伝道よりも愛を追い求めよ

第一コリント12章31節の最後に目を止めてみると、「そこで、私はあなたがたに最高の道を教えます。」とあります。」とあります。その次に13章に移動して、愛がどういうものなのかが13節までの文章を通して説明されています。そのため、人によって愛の形はまちまちなのが想像されます。それでも諦めずに最高の道は何かを探して行くと、14章1節に「愛を追い求めなさい。霊的な賜物、特に預言するための賜物を熱心に求めなさい。」と答えが出ています。

まずは、主イエス様を信じて、信仰生活を送ってみなさいと勧められているのですね。伝道するのが仕事である牧師になるには、何年にも渡る厳しい教育と訓練を施されて、私たちはそうして立てられた牧師を信頼することによって彼らは伝道の最前線に出る訳だから、伝道が簡単な訳がありません。

軽い気持ちで伝道など出来ないし、昨日今日クリスチャンになったばかりの人を伝道に駆り立ててもいけない。洗礼を受けてクリスチャンになる事は、イコール伝道者になる事でもありません。使徒パウロを通して教えられるクリスチャンの第一の務めは、第一コリント14章1節にある「愛を追い求めなさい。」と言うことです。愛を追い求める方法は、各人各様であるはずなのです。

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