20年来の友との齟齬
私には2001年10月第4日曜日から付き合いのある友達がいます。かつて同じキリスト教会に通っていた者通しで、お互いに別々の教会に転出した後でも連絡を取り合い、共に出かけたり食事したり話したり、色々と交流して来ました。それだけではなく、お互いの考えの違いで意見が折り合わず、私の意見が伝わらないためにFacebookの関係を切られたり、また友達関係が戻ったり、紆余曲折を経てこれまでやって来たものだなぁと、今は思っているところです。
今はコロナ禍になり、一緒に出かけることもなくなり、LINEの無料電話で話しをするのが精々で、これから会う日時はコロナ禍が明ける時になると決めているので、いつになるか分からない。そんな頃合いにあります。その最中にあり、私は仕事が忙しくなり、友達からの電話にもゆっくりと応じるのが難しくなっているという齟齬が生じて、今は距離を置かせてもらっています。
友達の不完全さ
友達は明治大学の法学部を4年間で卒業した人であり、今は自動車部品の工場で主任として普通にバリバリ働いているサラリーマンです。さほど優等生には見えないまでも、集中した時に発揮する問題解決能力は凄まじく、取得している資格としては、英検準1級、危険物取扱主任者、フォークリフトの免許など。色々と仕事上のノウハウは取得していて、私としては負けるなぁと感じざるを得ないのは、その辺りについてですね。
しかしながら、集中したら問題を解決出来るのが優れているのですが、彼は全体的に俯瞰することが苦手なのだなと鼻につくようになりました。本当に集中して情報を色々と入手するのが得意だがそれまでで、それらを総合して全体的に周りを眺めたり、自分を客観的に見たりするのが苦手なのだと、私が彼から距離を置く理由をようやく分析出来ました。彼は自分の中でヒットした事には夢中になり、何度となく同じ事を私に話しガハハと笑う。それについての欠点は、同じ話はどこまで行っても金太郎飴みたいに同じ絵柄なのであり、発展性がなく時間の無駄という訳です。林修先生について取り扱うYouTube動画で、先生は「結構同じ事を言う人に出会う」と仰っておられます。
私自身も同じことを話す傾向は幾らかはあるが、それでも全体的に俯瞰するというのは学校教育で学んだ大事な事だと思っているので、大学で論文を書くのに活かそうとして来たし、今ではなくてはならないものだと感じています。友達にも全体を俯瞰する事を学んで欲しいなと思っています。
私の改善策
友達が同じような話しをするため、私は「もっと筋道を意識せよ!」と伝えたくて、LINEでなるべく書いてくださいと申し伝えてあります。彼は明治大学出身で、知識の量においては及第点をつけられるのは間違いない。彼に足りないのは思考力であり、常識やらマナーやらで如何に自分のやりたい事を最小化していくかという意味合いで、文章の要約力だと思っています。そうは申し伝えても、いきなり彼が改善させることは難しく、LINEが来たのは一回だけで「会いたい牧師さんの教会へ行って来た」というもの。あくまでも自分の欲望に流されてしまい、自制する事が苦手だなと分かったし、後で彼はその牧師さんから怒られていたのをFacebookのコメント欄で確認しています。
距離を埋めるために
何事も頭を使って行わなければなりません。自己流にバットを振っても、ホームランを打てるようにはならないし、ホームラン王のタイトルを手中にする事は不可能です。筋道を立てて考えられたら、別の角度からも考えて、全体像を把握する。その上で自分が邪魔になるならば、大人らしく自分をまるごと除外して、相手の利益を100%確保したら如何かと思います。それで満たされない分、本を読むことで新たな恵みを受けたら如何でしょうか?何も自分が得するのが全てではないのは、聖書には「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」とヨハネによる福音書15章13節には書いてあるからです。
今は距離を置いていても、遠くから彼の欠点の本当の大きさが味わえるものです。ほとぼりが覚めたら、また声をかけてあげましょう。彼のために祈っています。