今日のお題
きたかん教会学校の集いで、分団で一緒だった方が人の成長スピードを気にするあまり、
「あなたはクリスチャンなのに、何で成長しないの?」と言ってしまうと仰っていた。そのことについて、指摘を受けるとも仰っていた。
確かに、バプテスマを授かってクリスチャンとなり何年かしたら、教会の側としてはハードルを上げたくなるのは分かる。
その内実は、「主にあることの素晴らしさを共有したい」なのだろうが、今の教会は人手が足りないから、
何かを負担して欲しいという気持ちはあるだろう。そうしないと、教会が立ち行かないというのが実情なのは否めない。
自分ではなく、聖書の御言葉が働く
しかし、考えてもみて欲しいが、そもそも人は右肩上がりに一直線で成長するものだろうか?決して、そうではない。
人生において良かったのを糧として心に蓄え、失敗からは我が身を振り返って学ぶ必要がある。そのような学習経験は不可欠だ。
何より、人を成長させる原動力と言ったら、聖書の御言葉ではないか。先ずは、毎日を生きる上で、聖書を読んでいくのが大切だ。
ゆっくりゆっくり歩む中で、心の中に聖書の御言葉を蓄えて黙想する中で、結果として与えられる御言葉から影響を受けるものだ。
自分自身はあまり変化はしていないと思っても、いつの間にか自分の人生が作り替えられているという経験をするのは、
私たちが頑張って変わろうとしているのではなくて、私たちの心にある聖書の御言葉の働きによるのだ。
神様の時を待つ
「あなたはクリスチャンなのに、何で成長しないの?」と言う方に対して処方箋は、「人は赤ちゃんとして生まれる」がまず最初。
人であれクリスチャンであれ、赤ちゃんとして生まれるなら、その後は幼児→少年少女→青年→中年→壮年と変化していくはず。
それぞれのライフステージで良いことがあり、悪いことからも学んで糧として、人は生きていかないだろうか?
赤ちゃん→幼児→少年少女のプロセスで、しっかりとした愛情や教育を受けていればこそ、
青年期でそれまでに培われたことが絢爛豪華に花開くのではないか。それなら、どうして成長のために急ぐ必要があろうか?
元々、人間は強くはないし、愚かさがある生き物である。私だって、愚かな者の中では最たる者だという自負はある。
それでも人が成長して行くには、聖書の御言葉を日々いただきながら黙想していくうちに、神様の時に成長させていただける。
私たちは既に成長の道に置かれている。後は、御言葉を受け取りながら、神様の時を待てばよい。
私たちは御言葉を受け取りながら歩む。そして成長を与えてくださるのは神様である。
きっと、その人生は自分の経験をもってして、良いものにできるだろう。
だから、今日一日をゆっくりと歩むことが重要。大丈夫。神様が今も全力で私たちのために働いていてくださるから。
やっちんの信仰ログ