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神様の領域と人間の働き

はじめに

私が所属するキリスト教会で青年会を導いていた頃、とある青年女子との関わりの中で思った事を以下に記して行きます。その方は教員志望で、非正規で何箇所かの学校に勤務して正規の教員を目指していました。その頃の一週間のスケジュールは月曜日から金曜日はフルタイムで8時間勤務。土曜日は午前中のみ勤務が求められるというもの。私の弟も教員をやっているので解るが、とにかく拘束時間が長い。長すぎる。一人の教員にのしかかる負担は大きく、青年女子の方としても休む時間を心から欲していたはずであります。最初は青年会の例会に参加していたのに、そのうち礼拝が終わったら直ぐに帰るようになって行った。あくまでも青年会をやるのは義務ではなくて権利であると承知していますから、その方がゆっくりと休めるように状況を整えるのも青年会会長の役割だと思って、承認していました。

人を励ます私の術

女子青年はそのうち礼拝からも足が遠のき、やがて全く足を運ばなくなってしまった。牧師としては色々とメールをして寄り添おうとしたらしいがなしのつぶてで、為す術もない。教会の皆さんとしても理由は全く分からない。私はその方のLINEを知っているので、理由は聞ける立場にあったが、個人のプライバシーを含む案件ゆえに、さして深入りせずに「教会から離れても、あなたがあなたらしくあるのが一番だから、教会に関する事は一切気にする事はない。」と言って励ますのみに留めた。人には人の人格があり、事情があり、思惑もある訳だから、人を憐れみ、励ましたり慰めたりしたら、あとはその人が病気を治すのを待つだけで良いと思っている。私がやる仕事と神様がなさる事を明確に線引きして、私はあくまで自分の仕事に専念する。それが真に良い結果を信じて、本当に良かったと思っています。

牧師の判断ミス

2022年12月24日に、女子青年の結婚式が執り行われる事になり、私は招待を受けて出席して来た。そこで女子青年の両親と久しぶりに再会し、どうして女子青年が教会に来なくなったのかを聞いた。以下の通り、簡潔に記す。

女子青年の母:教会の牧師から、英語の通訳や翻訳の仕事をするように言われてしまった。しかし、出来る訳がないではないですか。会社勤めしているのですから。娘は追い詰められ、とてもビクビク震えていて怖がっている。牧師から色々とメールで言われた末のある日、牧師からアクティブ会員から外れる旨のメールが来た。私は牧師をやらせてもらっている身なので、自分の娘の心中を慮り、私の牧会する教会に転籍させたんです。

上記の通り、牧師から重荷を負わされて、それに耐えきれずに志半ばで教会を離れたという事が言えそうだ。牧師は完全に判断を間違えてしまったらしい。会社勤めをしていればよく分かるが、生計を立てるための仕事に煩わされながら、キリストの兵士としての従順まで要求されるのは、本当に大変なことです。

月曜日から金曜日までフルタイムで勤務して、さらに土曜日にも午前中まで勤務して、しかも英語の通訳や翻訳までさせられるのは、言うなれば一週間休みなしで動いていなさいと命じるようなものです。さらに俯瞰して言うならば、「死ぬまで働け」と言っているようなものだ。女子青年が震えるのも無理はない。牧師は会社の上司ではないのだから、仕事を強要する立場にはなく、むしろ弱った心にも寄り添う責務があったはずなのだ。ついでに言うなら、女心が分かっていない。私のようなおっさんに「死ぬまで働け」というならシャレになり得るが、女子青年に言って理解を求めるのは無理があるかと…。

神様の領域と働き

キリスト教会は利益を追求する会社ではない。あくまで主イエス様に救いを求めて、人はキリスト教会の門を叩くのであるから、まずは礼拝に出席して神様を礼拝し、背負っていた重荷を全て降ろし、神様の御許に休まる必要性がある。人は礼拝のために教会に足を運び、神様はそんな人を顧みて罪を赦し、愛と平安と祝福とを与えられる。大事なのは、人が神様の領域についてどうのこうの言わず、じっと待つことであると導かれるのであります。日本のことわざでは「しいては事を仕損じる」と言われるが、その通りだと思う。

日本のキリスト教会においても高齢化が進み、新しく礼拝に繋がる人数も多いとは言えない。牧師としてはやるべき仕事が多すぎて、信徒に何とかして仕事を委ねたいと思っているはずだ。しかし、教会の仕事を今の働き盛りの信徒が請け負うのは難しい。何故なら、日本はバブル経済が崩壊して、人件費を減らした結果、会社のメンバーが少数精鋭になったのが挙げられる。景気が良かった頃は、一人当たりの仕事量が並盛か頭の大盛だったのが、今や大盛か特盛くらいに変化しているからだ。その分量の仕事と教会の仕事との両立は、今では非常に厳しいところにあるのではないか。明らかに、余剰人員の削減やら世の中の仕事数の激減は時代状況の変化を如実に表したものだった。

教会には繋がってくれる人が必要だし、働いてくれる人も必要である。だが、急ぎすぎて、結果を多く求めすぎても上手くいかないのは、これまで記して来た通り。人は生まれて成人するまで、20年かかるものとされて来た。20年経ったら、日の打ちどころのない完全な人になるかと言ったら、そうではない。さらに10〜20年はかかるのだから、人がひたすらに待っていられる年数ではない。いっその事、神様に全てを委ねたらいい。人によってはただ教会に来て、まったりと過ごして何もしない人もいるかもしれない。そんな人も神様の働きの領域にいて、神様がまさに直に働かれているのを認めて信じていなければならない。人間は生まれて赤ちゃんとして存在し、両親や祖父母や親戚を初めとする人々から愛情を受けて育つのだから、合点のいく話しではないか。

最後に

人は赤ちゃんとして生まれて来て、愛情をひたすらに受けて幼児へと成長するし、そこには自然の摂理が確かに存在している。地球が自転して、太陽の周りを公転する速度は全く変わりないのだ。植物や動物の生命としての営みも、そのスピードは全く変わっていない。人間だけは何故こうも急いで生きなければならないのか。上記の女子青年の件についても言えるが、急ぐ必要性が全くないのに急いでいる。そして、盛大に失敗している。

現代の教会の行き詰まる原因の一つとして確実に言えるのは、人が追い込まれたら神様の領域の事まで無理して何とかしようとする事である。神様は仕事が遅くてひょっとしたら何もしていないのではないかと人間の側が思えても、あくまでも神様を信頼して、教会に集まる人々と愛し合い励まし合い歩んで行こうとする選択をすることだ。人の自由と尊厳を認め、神様の領域と神様の時があるのも認めよう。そうすれば、女子青年のような悲劇は防げたはずなのだ。女子青年のこれからの人生の上に、幸多からんことをお祈りしています。

 

 

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